こんにちは、OdagiriJです!
今回は、「嫌なことが起きたときの心の処理」についての話をします。
早速ですが、「不幸中の幸い」という言葉がありますよね。
意味は、「不幸な出来事が起きたときの、わずかな救い」です。
例えば、
「財布を落としてしまったが、不幸中の幸いで、クレジットカードは持っていなかった。」
のような使われ方をします。
嫌なことがあったのに、何となく救われた気持ちになりますよね。
それで、今回の気づきですが、
もし不幸なことがあった場合、もし”幸い”の部分がなくても、無理やり探せばいいんじゃ?
ということです。
どういうことか、これから解説していきます。
「不幸」や「幸い」は、比較することで生まれる
なぜ「不幸」と感じるか?
→それが起きなかったら何もなかったのに、と「不幸じゃない状態」と比べるから
ではなぜ「幸い」と感じるか?
つまり、嫌なことが起きたとき
起きなかった場合と比べると、不幸感や落ち込みが増す。
そこで、比べる対象を「より不幸」に切り替えること。
こうすることで、どんどん沈んでいく気持ちにブレーキをかけられます。
嫌なことがあった場合、もっと嫌な状況と比べる
お金を失った場合
もし、財布をなくしてクレカも10万円不正利用されたら
普通なら「最悪だ…」となるところですが、
「10万円で済んでよかった、100万円もありえたかもしれない」
こう考えることで、この出来事を「幸い」で着地させることができます。
じゃあもし本当に100万円不正利用されてたら?→「500万じゃなくてよかったー」こうです。
もちろん、心のダメージを完全になくせるかと言ったら完全にではないかもしれません。
しかし、ダメージを軽減できるならした方がいいですよね。
ケガや病気をした場合
例えば、何らかのケガや病気をしたとします。
「軽傷」なら「重傷じゃなくてよかった」
「1ヶ月通院」なら「入院までいかなくてよかった」
「入院」なら「命に別状がなくてよかった」
ではもし「大切な人が命を落としてしまったら…?」
こればっかりは、「ダメージを軽減する方法」なんて軽々しく提案できないと思っています。
時間がたたないとなかなか傷は癒えないものです。
しかし「それでも何か救いはないですか」と聞かれたら、こう答えます。
「今こうして生きられていること」「命の大切さを教えてくれたこと」「たくさんの思い出をくれたこと」
私にはこれくらいしか思い浮かびません。
もはや命さえ落とさなければ全部幸い
ここまでくるともう、
「どんなことがあっても命さえあればそれがもう幸いなんじゃないか」
と思えますよね。
そもそも「嫌なことが起きないのが通常」という認識でいると、
起きてしまったときに、不幸を感じやすい。
だから「いつなにが起きてもおかしくない」と頭で知っていること。
ただ、常に「何か起きるかもしれない」と気を張って生きるのではなく、
それを理解しておくだけでも、何か起きた時に不必要に動じないで済むのではないでしょうか。
直接関係ないことと結びつけて「不幸中の幸い」とみなす
「起きた嫌なこと」の延長から「幸い」を見い出すだけでなく、
直接関係ないところから「幸い」を引っ張ってくるのもいいかもしれません。
「テストの点数が下がった」でも、「食べたシュークリームがおいしかった」
「試合で負けた」でも、「好きなアーティストの新曲がよかった」
直接関係なくても、救いとなる「幸い」は、日常にたくさん散らばっているはずです。
「目が見える」「耳が聞こえる」「手足が動く」「息を吸える」「物を食べられる」「楽しみがある」
当てはまるものはいくつあるでしょうか。
幸い中の不幸(上級者向け)
不幸を「幸い」で救うのと同じように
「幸い」が起きて浮かれそうになるところを、それを上回る「幸い」と比べて気持ちをセーブする
という考え方もできますよね。
「テスト90点とれた」→「100点じゃないからまだまだだ」
「好きな人と付き合えた」→「1年たたないうちはまだまだだ」
「志望校に合格した」→「将来の夢を叶えないうちはまだまだだ」
嬉しいことも「さらに上」を想像して、「まだまだ、大したことないな」と謙虚でいることができます。
おわりに
“幸い”は、自分で見つける時代です。
「不幸中の幸い」は、“見つける”だけじゃなく、“生み出す”こともできます。
たとえどんな出来事があっても、自分の心の持ちようで「幸い」に変えることができる。
そんな可能性を私は信じています。
ここまでお読みいただきありがとうございました!